African American History
公民権運動 (Civil Rights Movement)
概要
- Brenda Scott Wilkinson
- The Civil Rights Movement: An Illustrated History
1950〜1960年代、アメリカで“WHITE”(白人)に対して“COLORED”とされていた
アフリカン・アメリカン(黒人)が人種差別・隔離撤廃を求めて行った運動を指す。
ローザ・パークス夫人に端を発するバス・ボイコット運動や、この運動の指導者として
公民権運動の象徴となるキング牧師の登場や、有名なシット・イン運動、フリーダム・ライド
を経、てワシントン大行進でこの運動はピークに達する。
当時のジョン・F・ケネディ大統領政権下では、議会に提出されたままと
なっていた公民権法案が、1963年に暗殺された、ケネディの後に就任した
リンドン・ジョンソン大統領によって、1964年7月2日に著名された。
この公民権法が実施されることによって、差別を容認していた南部各州の
法律は全て撤廃・廃止され、紙の上では黒人に対する差別は無くるはずだった。
公民権法で個々の法律がまとめられ、公共施設での人種隔離廃止、
公立学校での人種隔離及び差別排除、連邦政府との契約下の事業による
差別撤廃と差別是正措置が定められ、公民権運動の集大成となる意味合いを帯びていた。
しかし、選挙権、住宅に関する差別、黒人に対する経済的差別に関しては
言及を避けており、選挙権に関しては1965年の投票権のための公民権法の成立、
住宅に関しては1968年に住宅差別を禁止する公民権法の制定を待つこととなった。
公民権運動までの歴史的背景
リンカーン大統領により発布された「奴隷解放宣言」は、アフリカンアメリカン(黒人)
に対しても白人と同等の権利を認めていた。
しかし、南北戦争後も、奴隷制度の名残を色濃く残す南部諸州では、
人種差別・隔離が州法や市の条例などによって法制化されていた。
「ジム・クロウ」と呼ばれるこのような人種隔離法は、※1交通機関での差別
(バスの席が分けられている、など)から始まり生活全般の差別へとひろがって
いった。
そして1896年の、プレッシー対ファーガソン事件の最高裁判決で
「分離が平等なら差別ではない」
と言う原理が確立されることとなった。
つまり、この事件では、鉄道施設における人種隔離、旅客列車において
黒人と白人を隔離して別々の車両に乗車させることを強制できるかが争点となった。
連邦最高裁は、各人種に提供されている人種別公共施設の設備がおおむね同等で
あるならば、平等保護条項に違反しないという判断「分離すれども平等」を下し、
これが人種差別に法的な根拠を与えることとなった。
1950年代から1960年代に盛んとなる公民権運動までには、こうした歴史的背景があった。
※1 1841年にマサチューセッツで最初の人種差別・隔離列車である黒人専用車が設置され、
1865年にフロリダ、ミシシッピー、1866年にテキサスで、1881年以降から1909年にかけて
ミズーリを除く南部全域で黒人専用車が設置された
バス・ボイコット運動
- ローザ・パークス, Rosa Parks, 高橋 朋子
- ローザ・パークスの青春対話
白人席に座り、立ち退かなかったとして逮捕された、※2 ローザ・パークス
をはじめとするアフリカンアメリカンが、バスの乗車拒否(バス・ボイコット)
を行なった運動を指す。
1955年12月1日アラバマ州モントゴメリーのダウンタウンにある、
モントゴメリー・フェア・デパートに勤務していたローザ・パークスは、
その日の仕事を終えて帰宅のためバス停へと向かっていた。
最初にやってきた満員のバスを見送り、次のバスを待つことになった。
そして、ここから公民権運動という、大ムーブメントの波が動き出した。
その日、ローザ・パークスは※3 白人席の後ろの空席に座ることにし、
やがてバスは新たに乗り込む乗客で膨れ、白人専用席は満席となり
一人の白人男性が座れなかった。
これに気づいたバスの運転手が、彼女達黒人に向かって席を空けるよう
言い、座っていた四人のうち三人は席を立つことを選び、彼女のみが
立つ意志のないことを運転手に告げた。
運転手はバスを降りて警官を伴って戻り、ローザ・パークスはその場で逮捕された。
彼女はその時、他の三人と共に席を立たなかった理由について
「白人の言いなりになることに疲れていた」
と述べている。キング牧師は、後に彼女のとった行動について
「“時代精神”によって追い詰められた」と述懐している。
彼女は裁判が行われるまでいったん釈放され、※4 NAACPのアラバマ支部長
E・Dニクソンと相談の上、連邦最高裁判所に訴えること、そしてバス・ボイコット
(バスに乗らない運動)を決意した。
その実行日は12月5日の裁判が行われる日に決められ、ニクソンは
ファースト・バプティスト教会のラルフ・D・アバナシー牧師に相談し、
彼から黒人指導者にバス・ボイコットの旨を伝えることとなった。
そしてニクソンはキング牧師にも協力を依頼し、これから始まる運動の
指導者としてやってほしい旨を伝えた。そうしてキングが牧師を勤める
デクスター教会には40人以上の牧師、市民活動家、医者、弁護士、
労働指導者が集まりバス・ボイコットの準備を始めることとなった。
当時の同市の人口は約13万人、内黒人人口は約5万人余でバス
利用者は黒人が60%を占めていたという。そのような状況の中で、
タクシー会社と、バス料金と同じ10セントで自宅と職場の往復の契約を結び、
バス・ボイコットを訴えるビラの作成の手配をし、そして黒人教会の日曜礼拝で
牧師が礼拝者に、バス・ボイコットに参加するように呼びかけ、決行日を待った。
こうして12月5日を迎えてバス・ボイコットが実行される。
5日月曜日の朝、いつものバスは白人だけを乗せて走っていた。
その日から黒人達は自動車で相乗りを行い、ある者はヒッチハイクをし、
またある者は自らの足で歩くことを選んだ。
そしてこの日の裁判で、ローザ・パークスは有罪となり、罰金を支払った。
バス・ボイコット運動はその後約13ヶ月続き、連邦裁判所の判決により
市バスの人種分離が違憲とされた。
- The Neville Brothers
- Yellow Moon
※2 1918年アラバマ生まれ。1943年にはNAACP-全米黒人地位向上協会の秘書を
勤める。2005年没。余談だが、ニューオーリンズのThe Neville Brothers
( ネヴィル・ブラザーズ)は、アルバム「Yellow Moon」でローザ・パークスに敬意を
表した“Sister Rosa”なる曲を書いて演奏している
※3
交通機関にも表れていた人種隔離政策は、バスに関しては白人客が
前方に、黒人客は後方に座ることとなっていたが、明確な境界はなく、
乗客の込み具合で、白人席と黒人席の境は、白人が優先して座れる
ようになっていた。
※4
全米黒人地位向上協会のこと。 法廷闘争で黒人の権利を守り続けた組織
シット・イン運動
黒人には座って食事することを認めていなかった食堂で、
黒人学生が、座って食事することを求めた運動である。
1960年、アーニー・バーンズの故郷でもある、ノースカロライナ州で、
学生たちが自発的に運動をはじめることとなった。
2月1日ノースカロライナ農工大学4人の黒人大学生が、※5 座って食事を許されない
簡易食堂(ウールワース・ストア)のランチカウンターに座って(シット・イン)サービス
を求めたが、即座に逮捕された。
しかし、逮捕されても次々と他の学生が座り込みを行い、彼らは白人の
嫌がらせにも非暴力の抵抗を続けた。(学生達は彼らの周りに集まった大勢の
白人からマヨネーズやケチャップを頭からかけられたり、タバコを押し付けられる
などの嫌がらせを受けたという)。
その後2ヶ月を経て、この運動は南部の11州50にも及ぶ都市に広がりをみせ
各州政府は催涙ガス、消防ホース、警察犬を持って運動の阻止にあたることと
なった。
またこの運動には白人も加わるようになり、逮捕者は1000人にも及んだという。
1961年最高裁はシット・インに対して無罪判決を下した。
この運動の中からSNCC(学生非暴力調整委員会)が結成される。
Max Roachマックス・ローチのアルバム「We Insist!」のジャケットワーク写真に “シット・イン”の感じが見て取れる。 ※5 当時の簡易食堂では州法及び市の条例で、黒人客に対して入店を 許可するもののカウンターでの立食いまでしか認めない店が多数あったそうだフリーダム・ライド
1961年に、公民権団体のCORE(人種平等会議)の議長に就任した
ジェイムズ・ファーマーが提唱し、南部一帯に展開した「自由のための乗車運動」。
当時の南部諸州では、黒人のバス利用率が多いにもかかわらず、ターミナルや
トイレ等の施設において、相変わらず白人用と黒人用に分けていた。
1960年2月の最高裁判決で禁止されていた、長距離バスターミナル等の
施設での人種分離に関する実地調査を行い、長距離バスでの人種差別撤廃を
目的とする、ワシントンからニューオーリンズまでの乗車運動、この運動を
フリーダム・ライドと言い、行動を行なった者をフリーダム・ライダーとした。
7人の黒人と6人の白人からなる、人種混合の13人のフリーダム・ライダーが
長距離バスのグレイハウンドと、コンチネンタル・トレイウェイズの2社のバスに
分乗してニューオーリンズを目指してワシントンを出発。
この時バスの中ではゴスペル曲“Don’t Let Nobody Turn Me Around”が歌われて
いたという。
しかし、この行程は困難を極めることとなった。途中サウスカロライナ州ロックヒルの
グレイハウンドバスターミナルで暴漢に襲われ、続いてウィンズボローで二人の
フリーダム・ライダーが逮捕される。
アラバマ州アニストンでは、グレイハウンドバスがタイヤ故障で、停車中に暴徒に襲われ
バスは炎上する。このバスのフリーダム・ライダー達は、バーミングハムの黒人指導者
フレッド・L・シャトルワース牧師指揮の下、武装教会員の自動車隊に救出される。
また同じアニストンで、コンチネンタル・トレイウェイズバスに乗っていた
フリーダム・ライダーが、乗り込んできた暴漢に襲われる。
そしてバーミングハムに着いた同バスのフリーダム・ライダー達が、下車した
ところを、今度はKKK(クー・クラックス・クラン)を含む暴徒に襲撃される。
このような状況の中バーミングハムで、次の目的地モントゴメリーを目指すも
彼らフリーダム・ライダー達を乗せるバスの運転手を見つけることができず
目的地ニューオーリンズまでの行程を断念することとなる。
断念したライダー達は、司法省の計らいによって飛行機に乗ってニューオーリンズへ
向かうこととなり、そこで大衆集会に参加することとなった。バスによるフリーダム・ライドの
中断が、「非暴力が暴力に屈すること」にさせないために、ナッシュビルとアトランタの
SNCC(学生非暴力調整委員会)のメンバー達、はフリーダム・ライドの再開を決意し、
モントゴメリーへ向けて、バーミングハムのバスターミナルに、総勢21人にからなる
新たなフリーダム・ライダーが結集することとなった。
しかし、モントゴメリーに到着するも、ここで再び暴徒に襲われる。
それでもバスは、次にミシシッピー州ジャクソンへと向かい、ここでフリーダム・ライダー全員
が逮捕されることとなった。
バスによるフリーダム・ライドで、最終目的地ニューオーリンズに到着することは
できなかったが、1961年9月に州際交通商業委員会により州間の交通車両及び
施設での人種隔離を容認しない決定が下された。
ワシントン大行進
1963年8月28日に実施された非暴力直接大衆行動のモデルとなる、
ワシントン記念塔からリンカーン記念堂までの大行進。
リンカーン記念堂で、キング牧師は“I have a dream”(私には夢がある)演説を行う。
約25万人(内約6万人が白人だったそうだ)が参加することとなり、プラカードを掲げ、
歌を歌いながら、ワシントン記念塔からリンカーン記念堂までを行進した。
この大行進は当初、「仕事と自由のためのワシントン行進」として、
A・フィリップ・ランドルフ(寝台車ポーター組合員で公民権運動の最長老)の発案から
キング牧師と公民権指導者達が、アメリカ史上最大の人種隔離反対、統合推進を
示すべく、組織したものであった。
当初は焦点を「仕事」に向けていたが、最終的には焦点を「自由」に向け直している。
こうして「Freedom Now(今こそ自由を)」が公民権運動のスローガンとなり、
“We shall overcome”は公民権運動のテーマ・ソングというにふわさしい歌と
なって、この行進の時にも歌われた。
Mahalia Jacksonマヘリア・ジャクソンは、キング牧師のスピーチの前に
“I been buked and I been scorned”を歌っている。この日に歌うことに
なっていた彼女はどの曲を歌おうかと思案していたが、その時、この黒人霊歌を
歌ってほしいと依頼したのはキング牧師であった。
- Bobby Womack
- Poet II
Bobby Womack ボヴィー・ウォマックはアルバム「PoetⅡ」中の “American Dream”の曲中でこの時のキング牧師の演説をコラージュしている
Martin Luther King Jr. マーティン・ルーサー・キング(ジュニア)牧師
1929年1月15日アメリカ・ジョージア州アトランタで生まれる。
1948年にバプティスト教会牧師の資格習得。
1954年にアラバマ州モントゴメリーのデクスター・アヴェニュー・バプティスト教会の、
第20代牧師に就任(1959年同教会辞任決意)。
1955年バス・ボイコット運動の指導者となる。1957年SCLC(南部キリスト教指導者会議)
の議長を務める。
1960年アトランタのエベニーザー・バプティスト教会で父(マーティン・ルーサー・キング)と
共同牧師となる。同年アトランタのシット・イン運動で逮捕。
1963年アラバマ州バーミングハムでデモ行進中に逮捕。
同年ワシントン大行進で「私には夢がある」演説。
1964年フロリダ州セント・オーガスチンで公共施設統合デモに参加して逮捕投獄。
同年12月にノーベル平和賞受賞。
1965年3月アラバマ州セルマからモントゴメリーまでデモ行進、7月シカゴ運動に参加、
翌年にはイリニイ州シカゴのウエストサイドに移住。(シカゴ運動の目的はスラムの現状を
世間に訴えること、そして住民を組織化して住宅環境改善を要求させゲットーを改善
させることにあった。
1967年ニューヨークのリヴァーサイド教会でベトナム反戦講演。
1968年4月4日メンフィスのロレーン・モテルで狙撃されセント・ジョセフ病院で死去。
葬儀では彼の支援者の一人でもあったマヘリア・ジャクソンが
“Take my hand, Precious Lord”を歌っている。
またこの歌は1972年にマヘリア・ジャクソンが生涯を閉じたときに
Aretha Franklinアレサ・フランクリンによって歌われた歌でもある。
キング牧師の誕生日を祝日にする運動に熱心だったStevie Wonder
スティーヴィー・ワンダーはアルバム「Hotter Than July」の中でキング牧師に
“Happy Birth”なる曲を捧げている。
-
- Stevie Wonder
- Hotter Than July
1983年にM.L.キング記念の国民祝日が制定され1月の第三月曜日が国家の
祝日となり1986年から実施されている。
またNathan Davisネイサン・デイヴィスはタイトルもずばり
「Suite For Dr. Martin Luther King. Jr.」なるアルバムを捧げている。
公民権運動におけるキング牧師の非暴力不服従の姿勢には影響を与えた
二人の人物がいた。一人は論文「市民としての不服従」を書いたヘンリー・D・ソロー。

- H.D.ソロー, 飯田 実
- 市民の反抗―他五篇
そしてこの論文に影響を受けソローの考えを発展させた「非暴力の人」
マハトマ・ガンディーである。ガンディーの非暴力運動は早い時期から
アメリカ黒人運動活動家には知られており、キングは神学校3年の時にワシントンに
あるハワード大学学長M・W・ジョンソンの(インド・ベンガルでの世界平和主義者
会議に参加後の)講演を聞いた直後から、ガンディー研究を本格的に始めたと言われている。
- ガンディー, 森本 達雄
- 非暴力の精神と対話
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ジャズ批評44−特集黒人雑学事典
ジャズ批評者
黒人の誇り。人間の誇り / ローザパークス著 高橋 訳
サイマル出版












