Ernie Barnes
アーニー・バーンズのライフストーリー
ERNIE BARNES 幼少時代の想い出
「ある日フィールドで空を見上げると、太陽の光が雲の隙間から差し込
み、ユニフォームのよごれのない部分を照らしていたんだ。なんて美しいん
だろう!と思わず僕は叫んだ。その時、僕のフットボ-ル選手としての人生
は終わり、芸術への情熱はさらに燃えた。スパイクシューズはキャンバスに、
体中のすり傷は絵筆に取って代わり、僕はフィールドで体感した猛烈さや
パワーを自分の絵にぶつけていった」
1938年7月15日、ノースカロライナ州の貧民区ダラムでアーネスト・
ユージーン・バーンズJr.は生まれる。父親のアーネスト・バーンズSr.は
リゲット・マイアーズ・タバコ社の積荷事務員、母親のファニー・メイ・
イェールは、後にアーニーを芸術の世界へといざなった裕福な南部の弁護士、
フランク・フラー Jr.のメイドとして働いていた。
幼いアーニーは度々母親の職場へ連れて行ってもらうことがあった。
そんな日は弁護士のフラーがよく彼に話をしてくれたという。
「アートと人生についてさ。彼はよく僕を書斎へ呼んでたくさんの美術書を
見せてくれた。素敵な部屋だったよ。綺麗に磨かれたマホガニーの壁に革張り
の椅子、革表紙の本がずらりと並んだ本棚、そしていつもクラシック音楽が
流れていてね」
「彼は僕にいろんな話をしてくれた。美術の様々な流派や彼の好きな画家の
こと、訪れた美術館のこと、そしてその他にもたくさん、当時7歳だった僕
には理解できないような話もね」
それ故に、地元の教育委員会のメンバーであったフラーが学校分離廃止に反対
投票したことには特に驚いたという。「彼は、白人側がまだ準備不足だと
思っていたからだ、と母に話していた」
教育熱心な母と、内向的性格からくる挫折
小学校に入るまでに、彼はロートレックやドラクロワ、ルーベンスや ミケランジェロのような巨匠の作品に精通していた。そして中学校に 上がるまでに、美術館に所蔵されていた傑作の多くを理解するだけでなく、 正しく評価することができた。 それも、アフリカ系アメリカ人の美術館への入館がやっと許可される 6年以上も前のことである。 厳しい人種隔離政策下にあった1940年代、南部の下層中産階級家庭
ではめずらしく、母親のファニーは子供の教育、とくに芸術教育に
熱心であった。
「母は僕が教養豊かな人間になるようあらゆることをさせてみたらしい。
美術と音楽の道に僕を勧めたが、タップダンス、サクソフォーン、
トロンボーン、バイオリン、そしてピアノ、どれひとつマスターでき
なかったんだ」
と彼は笑う。しかし美術の才能は早い時期に芽吹いた。
「僕は教室にいないでいつもどこかでペンキ塗りをしていた」
小学校時代から高校時代にかけて、太り過ぎのうえ激しく内向的な
性格だったアーニーは、常にクラスの「笑い者」になった。そんな彼は
次第にスケッチブックの中に逃げ場を求めるようになる。
「みんな僕を嫌っていたよ」
と、彼は言う。
「僕自身が学校へ行かなければならないという現実を受け入れるまで、
母は10回も僕の手を引いて学校へ連れて行った。スポーツ教育に熱心な
その校風は自分にあまり向いていない気がした。ボクシングも、速く走る
こともできなかったし、ハードな試合には到底選ばれなかった。内向的で
内気だったから、ボクシングの試合で容赦なく打負かされた日はたいてい
泣いて家に帰って来た。たまたま泣かずに帰宅するような日があれば、
具合でも悪いのか、試合が中止になったからだろうと思われたみたいだね。
とうとう母は僕が他の子供より15分早く帰宅できるよう頼んだんだ」
「家で絵を描いている時が一番楽しかったよ。僕の五感が、紙の上で繰り広げ
られる新しい世界へと自然に身をゆだねるんだ。とても簡単なことだった。
僕の分身になった‘線’は、木々や雲、鳥たち、そして人々など、僕の身近に
あるあらゆるものにすらすらと姿を変えていった。学校でも絵を描いている
ときだけは、誰も僕をからかったりしなかった。ただ黙って、畏敬のまなざし
で見ていてくれた。」
避けて通れなかった、スポーツとの出会い
13歳になった時、‘ガ-ルフレンドを得る唯一の方法はスポーツで能力を 発揮することという厳しい現実を、彼は嫌と言う程実感するようになる。 「スポーツ選手は、アフリカ系民族の遺産の最も素晴らしい具体化だと
言われ、尊敬されたんだ。天国への唯一の道はフットボールかバスケット
ボールと共にあると多くの人が確信していた。いつの日も街でかわされる
一番の質問といえば、今日のメイズ(大リーグの強打者)はどうだった?
とか、ヤツの走りを見たかい?とかいうようなものだった。彼らのような
アフリカ系アメリカ人の男は皆、少なくともボールが当たればすぐに
ホームランを打とうと試みる。これは人種による恩恵だったんだ。」
残念ながら、この繊細な青年にとってスポーツは永遠に避けて通れない
道となる。運命のいたずらか、アーニーの身長は、フットボールコーチに
目をつけられるほどに高くなってしまったのだ。とうとうコーチのオフィス
へ出向き、体重計に乗せられる。
そしてロッカーが割り当てられ、パッドやヘルメットなどの装備一式が用意
された。
しかしそののち、彼は大怪我が原因で、結局2セッションの練習の後にフット
ボールを断念することとなる。フィールドでの致命的な怪我を避けるために必要
な闘争心が彼には欠けていたのだ。
タッカー先生との運命の出会い
翌年コーチ陣が代表チームのメンバーを選抜し始めた際、アーニーは母に
もうプレーさせないように頼ませるのだがその作戦あえなくは失敗。
「ある日学校から帰ると驚いたね。 なんとヒギンズコーチがうちの
テーブルでニコニコしながらチキンを食べてたんだ。」
アーニーは笑いながら続ける。
「チームのキャプテンも一緒にチキンを食ってた。 彼らの脂ぎった顔から
作られた美しい笑顔を見た途端に悟ったね。 彼らが何を話していたか知ら
ないが、事は既に同意されていたことを。 もう彼らが決定したことを聞く
のを待つだけさ。食事のあとでコーチは口を拭いてママやキャプテンと一緒
に跪いて祈りを捧げてたよ。コーチはママへ謝礼を渡し次の日には僕は背番号
73さ」
同時期にアーニーはクラスの合間に創作活動ができるような、あまりひと気の
ない学校内の場所でよく時間を過ごしていた。 ある日石工の先生が偶然通り
がかり、アーニーに問いただす。
「おいお前、こんなところで何をしているんだ? 生徒はここのエリアに
いちゃいけないんだ。 なぜ外で遊んでないんだ?」
アーニーは恐る恐る先生の目を見ることしかできなかった。
するとタッカー先生はアーニーのスケッチブックを見つけると、
「これ全部君が描いたのか?」
と聞いてきた。
「はい。 そうです。 ここが静かだったのもですから・・・」
するとタッカーは笑顔でそのスケッチブックを見ながら
「ついて来なさい。」
と言った。 てっきり学部長のオフィスへ叱責されに行かされるのかと思いきや、
タッカーは自らのオフィスに連れて行きアーニーの成績や彼が人生でなにをしたい
のか等質問をし始めた。 そして彼は自身も若い頃に一度全ての事が嫌になり、
その時いかに筋力トレーニングが彼の人生を救ったか語り始めた。
その後でアーニーの自宅に出向き彼の両親に筋トレ用具を買い与える様勧め、
それ以来アーニーのフィットネストレーナーとなり宗教的にも問題のない様な
プログラムで鍛えさせられた。
そんな偶然がアーニーの人生を大きく変えることになる。
スポーツでの成功と、大学進学
高校3年の時に彼はフットボール代表チームのキャプテンとなり、
砲丸投げで州のチャンピオンにもなり、卒業時には多くの大学から
26もの奨学金のオファーがあった。 そういった経緯がなければ
彼は大学での教育を受けることは経済的に不可能だったろう。
しかしながら実家から近距離にあるデューク大やノースカロライナ大と
いった大学からのオファーは受けられなかった。 その当時は人種差別を
禁ずる法が施行される幾年か前だったため、アーニーのオプションとして
は、黒人のみが通うキャンパスに行かざるを得なかった。
そしてノースカロライナセントラル大学のキャンパスを選んだ。
またそのロケーションは彼が通った高校からわずか1ブロック先にあり
実家通学が可能であった。
フットボールをしながら、芸術家であり続けるマインド
アーニーが大学で過ごした4年間は、彼が芸術家として成長するにあたり
有意義なものだった。 スポーツ選手としての誓約も果たしつつ、2人の
研究者の後見の下、アートを専攻した。 一人はエド ウィルソン学部長。
ウィルソンは著名な彫刻家のウィリアム ゾラックに学んだ人物で、
もう一人は副学部長のウィリアム B. フレッチャーである。
殆ど全ての生徒が経済的に恵まれない環境や問題の多い高校出身者で、
画用紙を切ったり貼ったりする以外何もアート的な経験がない事に
ストレスを感じながらも、ウィルソンとフレッチャーに関してアーニーは、
「彼らは持っている全ての知識を統合する知恵を持っていてスケッチや
ペインティングの基礎や解剖学、建築、テクニックやものの見方、光と影、
彫刻、デザインの基礎、図解や歴史に至るまでをクラスで教えてくれた。
授業の全ては個々のスタイルを優雅に導き出す様に工夫されていたんだ。
なんて素晴らしい所なんだ!ってね。 僕は芸術学部の建物に住んでいたよう
なものさ。 できるだけ多くの知識を得たかったから他のクラスをサボったり
もしたよ」
ウィルソンがアーニーに言ったことがある。
「もしも君が芸術家になりたいのなら、例えそれがなんであれ自身の経験
から作品を創らなくてはいけない。 フィールドでプレーする時、君の周りで
どんなし烈な戦いが行われているか見届けるんだ。君がどんな経験をしているか
しっかりと見つめ、探求して、教えてくれ。 何が見える? 何が君を動かす?
そんな事に対する君の意見を聞かせて欲しい。」
ウィルソンがアイオワ大学のフットボール選手だったことも幸いした。
「教授からは…」
アーニーは続ける。
「芸術のプロセスもスポーツのプロセスも一つの大きなもののパーツである
ということをより理解できる様になった。 フットボールをプレーしている
最中でも芸術家であり続けている自分に気がついていたんだ」
「黒人は、芸術をするべきではないのよ」
1956年にノースカロライナ美術館がローリー市にオープンした際、
アーニーは初めてルーベン、カラヴァジョやゴッホ等の芸術作品を実際に
その目で鑑賞する機会を得た。 まさに幼少時代の夢が叶った瞬間だった。
「建物に入るとすぐに、僕は何かが繋がった気がしたんだ。 学校で
随分前にあるコースに受講願いを出したのにそのコースが一体どこで行われ
ていたか知らされない様な感覚。 自分の夢がまるで手の届くところまで来
ている様な感じだった。 美術館で非常勤講師が作品一つ一つの説明を聞き
ながら鑑賞していたが、少し歩み寄って質問してみたんだ。
「黒人アーティストの作品はどこですか?」とね。
彼女は僕の質問に酷く驚いた様で僕を見つめて弁解的にこう言ったんだ。
「あなた方は自分達を表現するのにこういった方法は使わないわ(黒人は
芸術をするべきじゃないのよ)」とね。
その後ウィルソン教授はアーニーら生徒に「これで問題が何か理解できたな。」
と言った。 まるでその精神的ショックに対抗するかの様に教授は生徒達に
Henry O. Tanner, Edmonia Lewis, Duncanson, Archibald Motley,
Hale Woodruff, Sargent Johnson, Palmer Haydenといった
黒人アーティストの作品を見せてくれたのである。
「これらの絵画は全て黒人の作品でそこそこの評価を受けているものの
黒人のルーツが反映されていてこれではヨーロッパの基準には合わず、
結果クオリティーは低いものとされた。 当時芸術家として食べていけた
黒人は一人もいなかった。 父でさえ僕が芸術家になることに反対だった。
初めて父に希望を打ち明けた時には父は、何だって? お前がお絵かきし
てる間、誰がお前を食わせるんだ?って言われたものだよ。」
とアーニーは回想する。
ドラフト指名、年俸6500ドルで契約へ
奇遇なことにアーニーがノースカロライナ美術館を訪れてから約20年後、
同じ場所で2回アーニーの個展が開かれることになる。
一回目は1978年James Hunt知事主催によるもので、2回目はその
翌年ブレイクのきっかけとなる『The Beauty of the Ghetto』がH.M.
Michaux主催により開催された。
在学当時アーニーは初めて自分の作品をSam Jonesに$90で売った。
Samは丁度ボストンセルティクスの初シーズン中に芸術部を訪ねた際に
作品を目にした。(その作品は後に火事で焼失される)
4年生の時には毎週プロチームからの誘いの手紙を受けていた。
しかし黒人の地位として珍しいことであったが、彼はプロになろうという
発想は殆どせずに芸術家への道を決心するのである。
だが21歳としては想像できない程の膨大な金額が魅力的に映らないはずが
なかった。 1959年にワールドチャンピオンチームであるバルティモア
コルツからドラフト指名を受ける。
コルツがアーニーとコーチを対ジャイアンツのチャンピオンシップの
試合に招待した際、アーニーは生まれて初めてホテルというものに滞在し
チームと契約を交わした。 年俸6500ドルとボーナス500ドルだった。
アーニーは経験に影響され、自宅に戻ると初の主要な作品となる
『The Bench』の創作に取りかかる。 その時のことを良く覚えており、
「その作品はウィルソン教授が認めてくれた唯一の作品でずっと手放さない
つもりだったんだ」
と語っている。
背景に横たわる、自分が「黒人」であるということ
プロフットボールの世界に飛び込んだアーニーは全米が人種的問題で
不安定な中、その支配的な白人社会に適応しなければいけない状況に
直面したのだった。
「抗議のマーチ曲はいたるところで鳴っていたよ。 事の発端は、
1960年2月1日にノースカロライナ出身の勇気ある黒人生徒4人が、
グリーンズボロにあるショッピングセンターで白人専用のランチ
カウンター席に座ったとこからなんだ。 『Sit-Ins』と呼ばれる行為さ。
次の街はダラムだった。 全ての黒人系の大学で抗議集会が行われた。
僕のそれまでの人生は、したこと全ては黒人と共にあったんだ」
トレーニングキャンプのために他の新人達とメリーランドのウェスト
ミンスター大学に到着したアーニーは片手にスーツケースを持ち、
もう一方で彼の作品『The Bench』を抱えていた。
選手それぞれの挨拶が終わるとコーチ達は彼の手に持つ作品に
興味を持った。
「驚きだった」とアーニーは言う。
「否定的なリアクションは全くなかった。 皆その作品が僕が描いたもの
だということに驚いていたよ。 ボールコーチにいたっては彼が子供の頃
いかに芸術家になりたかったかという思い出を語り始めたくらいさ」
そしてあるスポーツ記者がインタビューを依頼し、それが記事になる頃には
アーネスト・バーンズはアーニー・バーンズというニックネームで知られる様
になる。
自分の人生に向き合った作品を創ることを決意した
その後5年の間、アーニーはサンディエゴチャージャーズとデンバー
ブロンコスでプレーする。 ニューヨークを拠点としながらオフの日には
ギャラリーを頻繁に訪れた。 当時彼が目にした作品の多くは抽象アートで
主に時代の怒りを表現したものだった。
「そんな作品を見る度にユニフォームについた血痕や草の染みを思い浮かべたよ。
作者が本当に絵の描き方を知っているのか疑問に思ったね。 もしそうなら何故
もっと現実や人生というものに向き合わなかったのかとね。」
そして何故スポーツのリズムや情熱といったものが反映されていなかったのかも
理解できなかったという。
そんな折にある日アーニーはハーレムの本屋に立ち寄る。
その時偶然チャールズホワイトの複製ポートフォリオに出会う。
彼にとってこの出会いは衝撃だった。
「黒人のライフスタイルを描いたもの観るなんて生まれて初めてで
深い印象を残したんだ。 そしていつかヒューマンライフを真摯に描く
作品を創ることに専念しようと心に誓った」
プロフットボーラーとしてのキャリア
チャージャーズ在籍時に広報部長であるボブ バーディックは
アーニーにチームメイトの似顔絵を描く機会を与える。
試合で売られるプログラムのためである。
その後アーニーはサンディエゴでスタートしたばかりの深夜番組
(レジス・フィルビンの初のトークショー)にゲストで呼ばれる。
そして間もなく『サンディエゴ マガジン』にプロ・フットボール
特有の暴力に関する記事とイラストを依頼されることになる。
プロ選手としてのキャリアを積みながらアーニーはチームの
ミーティング中、退屈しのぎにスケッチを始める。
「チームメイトがミスを責立てられるのを聞いたりしながら、
まるでそれは暗い部屋で同じ試合を何度も何度も繰り返し見る様なもの
だったよ。控え室はある一種の緊張感があった。ある日ミーティング中に
スケッチをしていたらバレてね。大っぴらにスケッチしてたわけじゃない。
プロジェクターから発せられる光の影に隠れながらプレーブックにスケッチ
していた。部屋の暗闇から開放してくれたよ。でも時々ボンヤリしててね、
ジャック フォークナー(デンバー時代のヘッドコーチ)が静かに僕の後ろに
やって来て罵声を浴びせられたね。
「バーンズ、何やってんだ! 50ドルの罰金だ!」
そこで僕は、
「コーチ、僕はただ、えーと・・・戦略をスケッチしてたのです!」
と言ったが無視され、
「このミーティングが美術のクラスになった時は、どうぞ好きなだけスケッチ
しててくれ。だがそれまでは俺が見つける度に50ドルの罰金だ。 お前は
その絵でも売って罰金の足しにすりゃいいさ。」
アーニーは振り返る。
「そんな時でも僕のフットボールに対する考えに大きく影響したよ。
他に食っていく道なんかなかったから。 プレーヤーとして上手くなってい
たし、他にどうやって生きていく手だてがあるか分からなかった。」
そんなある日、初の個展開催の話が舞い込む!
アーニーにとって初の個展となるオファーがBronco Backers Clubより
あり、団体が主催するデンバーカントリークラブでのパーティーにて彼の
作品を展示するというものだった。
しかし問題はアーニーが『The Bench』以外の作品を持っていなかった
ことだった。チームの広報担当者がせめてスケッチも展示する様にアーニーに
勧めたが、本人はそれを断った。 代わりに彼はマゾーナイト紙を購入し
アクリルペイントに取り掛かった。 そしてパーティー当日のディナータイム
までに10作品にも及ぶ抽象画を額縁と値札もつけて完成させた。
本人も驚いたのだが、その晩6作品も売れ、『The Bench』に至っては
25,000ドルで購入したいとの申し出も受けた。

「僕はその作品を売りたくなかったから、その買いたいという男性にわざと
金額をふっかけたんだ。 するとその人はすぐに小切手にサインして僕に渡した。
最初この人はただの酔っ払いかと思ってたんだ。 だけと真剣だった。
その作品は売り物ではないと言えば言うほど一歩も譲らないんだ。」
そんなやり取りを見物する人だかりの中に『Sports Illustrated』の記者がいた。
1週間後その日の模様は紙面に登場し、『The Bench』の写真が全国区に
露出されたのだった。
カンザス・シティーで行われたブロンコス対チーフスの試合中、
アーニーはパントリターンすべく相手を追い、チーフスのベンチ前のライン外
に選手をねじ伏せた。
起き上がると小さな老人がベンチの後ろでスケッチしている光景が見えた。
見覚えがあったがアーニーははっきりと思い出せない。
「僕が彼を見ると彼もスケッチブックから目を離し僕を見たんだ。
そして試合後のロッカールームにその老人が入って来た時にやっと分かったんだ。
彼がトーマス・ハート・ベントンであることをね。」
ベントンはアメリカでもっとも人気の高いモダン画家の一人である。
アーニーがまだブロンコに在籍していた頃、地元紙の『デンバー・ポスト』
はアーニーの作品に関する記事を写真付で4ページに渡って報じた。
写真掲載された作品の一つは2人のピエロを描いたもので、元々コーチの
妻から依頼されたものだった。
「その作品に対する反響はもの凄かったよ。 デンバー中の人々から手紙をもらい、
皆コルクパネルに描かれた2人のピエロを欲しがってね。
1つ100ドルで売ったんだけど、週に3ピースは売れたね。
試合のギャラより多かったから、もう僕は転職考えなきゃって思ったよ。」
アーニーは笑いながらそう語った。
あの独特な人物描写(たて細長)は、手の痛みから…?
その頃からアーニーは小さなノートと5センチほどの鉛筆を左足の
ソックスの中に忍ばせるようになる。 タイムアウトを告げられた時やベンチ
に戻された際にすぐに作品のテーマなどをメモ出来る様にするためである。
「僕はさらにクリエィティブな想いで頭が一杯になり、僕のフットボールに
対する想いを作品にする必要性を感じていたんだ。 いつも試合が終わると、
僕の精神は自分が見たものに命を与えたい欲求に駆られていた。」

そしてさらに、
「自分の手がどんに膨らんでいようが痛かろうが、自分が見た瞬間を
捉えるべく描きはじめるんだ。 苦痛のせいなのかそれともすでに何かを
悟っていたのかは分からないが、人物を細く、そして縦長に描くようになって
いったんだ。そしてそれはその動作の瞬間に入り込もうとするとごく自然に
そうなっていたんだ。」

数えきれない程のペインターに影響を与えた、人物を細長に描写する表現方法
アーニーバーンズ、引退。しかし…もういちど復活…?
第5シーズンが終わろうとしていた頃には、アーニーは引退することを
直感で感じていた。
「シーズンの最終試合というものはだいたいが辛いものさ。」
アーニーは説明する。
「それぞれの選手が最後の力を振り絞り、なんとか契約が延長され、
願わくば契約金もアップして欲しいなんて考えながら頑張るものさ。
そんな日の午後の試合はまるで虫けらの戦いのようになってしまう。」
とアーニーは頷く。
たった一瞬で両チームは、ヘルメットと拳で殴りあう選手達がセンター
フィールドに集約し、観客はそれを見ながら歓声と野次を飛ばす。
アーニーは乱闘に加わることは意図的にせず、代わりにサイドラインに立ち、
こう呟くのだった。
「さあ、古代ローマのコロシアムで行われたシーンの再現です。
群集は親指を下げブーイングをしております。 記者席はまるでタイタス
皇帝が良い試合を観戦した皇室専用ボックスシートのようであります。
そして今日という日に、より劇的なエッセンスを加えるためでしょうか、
太陽が雲から顔を出しようやく沈静化した選手達のヘルメットを照らして
おります。」

ロッカールームに戻るとアーニーは現代のプロ・フットボールを総括する様な絵画を
思い浮かべるのだった。 すでに作品の題名も決めていた。 『Sunday’s Gladiators』
である。 彼のテンションは上がり、 コーチに辞職願を出し、チームメートに別れを告げ
サンディエゴへ向かったのである。
資金が必要だったため、アーニーは死体安置所の建設で金持ちになった
知人に掛け合った。
芸術家としてのキャリアを積む間のパトロンになってくれるのではないかと
期待していたのである。 しかしその知人は、
「芸術家になるなんてアイディアは馬鹿げている。 アーティストとして
食っていくなんて不可能だ。 君は黒人なんだぞ。 有名な白人アーティスト
だって苦労してるんだ。 ちゃんと職を探しな、まともなのをな。」
と断られてしまうのだった。 そしてその知人は部下に電話して建物の地下室
でセメントをドリルで壊していく仕事をアーニーに斡旋したのである。
落胆していたアーニーは隙あらば現場を離れスケッチできる機会を窺っていた。
「時には30分も現場から離れたこともあるよ。 そのうちに創作意欲が強すぎる
程沸くようになって時には偽って病欠したこともあったほどさ。」
前妻と子供への養育費や援助金の出費がかさみ、結果アーニーはまた
フットボール選手となる。 カナダのチームのSaskatchewan Roughridersが
所属先だ。 オープン戦最終試合の第4クオーター中、 アーニーは
パス・プロテクションを少しずらすと右足に鋭い痛みを感じた。
X線レントゲンの結果チーム・トレーナーは骨折を告げた。
同時にそれはプロとしてのキャリアの最後を告げる瞬間でもあった。
当時、26歳だった。
どん底→ゴッホの手紙→芸術家へ
国に戻る間、アーニーの所持金はデンバーに到着するまでに150ドル
まで底をついていた。 にも関わらず美術の教師や私立学校のフット
ボール・コーチの職といったオファーは断ってしまう。
なぜなら彼はそういった職業の制約に耐えられないことを自分で知って
いたからだった。 友人から若干金を都合し、アーニーと妊娠中の二人目
の妻はサンディエゴに向かうのであった。サンディエゴには地域で人気の新聞
記者であるDon Freemanがいて、彼もまたロスまでの交通費として
100ドル貸してくれた人物である。
その金の一部を使い、アーニーは大きなスケッチ・ブックと鉛筆、そして塗料
を購入した。 残りはハリウッドにある安モーテルの宿泊費に消えた。
アーニーはそこで様々な試合戦略を荒々しくスケッチしていた。
金が底をつくと大切にしていたパッチと指輪を質入した。 そしてジャネット
には栄養バランスのとれた食事、アーニーにはチョコレート・チップとコーラを
買うにはなんとか十分な額だった。
所持金がほぼ底を尽きてきた頃、アーニーは中古本屋へ出向き自分の本を売りに
行った。帰りがけ、彼はゴッホに関する記事を目にする。その記事は絶望に満ちた
ゴッホが兄弟に宛てた手紙について書かれていた。
「何度もその手紙を読んだよ」
アーニーは言う。
「僕が感じたショックは大変なものだった。そこには全てがあったんだ。
戦いや事の不透明さ、差し迫った失敗、そして何よりも重要なのはこの人生の
岐路に立った自分への再認識だった。 突然気が楽になった。より勇気が持てた。
まるで2次元の漫画のキャラクターが奇跡的に立体化されスチームローラーに
乗って生き返るみたいさ」
アーニーはホテルの部屋へ戻り、自信作7点を選びある提案書を作成した。
なんとか収入と多少なりとも名声が得られることを願いながら。
そして敷地内の公衆電話からホテル経営者であるバーロン・ヒルトンに電話を
入れた。車に給油する金もなかったのでアーニーはビバリーヒルズにある
ヒルトン・ホテル社まで約10キロの道のりを歩いて向かった。
ヒルトンはアーニーの作品に非常に感動し、AFL(アメリカン・フット
ボール・リーグ)の専属アーティストを目指すのはどうかと提案した。
2週間後ヒューストンにて行われるAFLのオーナー会議に提案書を書いて
届ける様に勧めたのである。そしてヒルトンはLance Alworthがパスを
キャッチする絵を1000ドルで依頼し、その場で500ドルをアーニーに渡した。
その出会いはアーニーのキャリアにおいてとても重要なターニングポイント
となった。ニューヨーク・ジェッツのオーナーであるソニー・ウァーブリンは
アーニーに作品と共にニューヨークへ招待し、諸経費代として1000ドルを払った。
数週間後招待に応じたアーニーは9作品を持ってニューヨークを訪れる。
西57番通りにあるギャラリー、Incurrable Collectors Galleryにてウァーブリンと
顔を合わせることになる。 挨拶もそこそこに3人の正装した紳士たちを紹介された。
そしてアーニーは外で待つ様に言われる。 外でウァーブリンを待っているとある
男に出くわす。(後にその男はNewspaper Enterprise Associationの記者だと知る)
「その男に聞いてみたんだ。 あの3人は誰かって。 すると彼らはアート評論家で
僕の作品を中で評価してるって言うじゃないか。 まったくショッキングだったよ」
20分後、評論家たちは帰っていった。 そしてウァーブリンが出てきて記者と
二言三言会話を交わすとようやく笑顔でアーニーを見た。
「若者よ、もうフットボールはなしだ。 先ほどの3人は評論家なんだが、君の事を
何って評価したか知ってるかい? 君はGeorge Bellows以来最も表現力に富んだ
アーティストらしいよ。 そう、君はもう芸術家だ」
それはアーニーのキャリアで最も意味深い瞬間だった。 アーニーは楽しげに
回想する。
「ソニーは僕の腕を引っ張って通りの向いの彼の事務所へ連れていこうと
したんだ。昨年のシーズンで幾ら稼いだ?って聞かれたので13500ドルです
と答えると、彼はちょっと立ち止まって考えていたんだが、僕に言ったんだ。
“君には絵を描いて欲しい。それ以外何もして欲しくない。技術を上げるんだ。
で、どうだい? だいたい半年間でどれくらいの作品を描ける?”
正直なんて答えていいか分からなかったけど25〜30位ではないかと伝えたんだ。
そして我々はまた歩き始めた。 “よし、わかった”とソニーが言うんだ。
“30作品で契約しようじゃないか。 半年で14500ドル支払おう。
そして半年経ったらその成果を見てここニューヨークで君の個展を開こう。
どう思う?”」
その後ウァーブリンの顧問弁護士の事務所でアーニーは正式に契約書を交わす。
契約内容には追加事項として、必要の際はいつでもレンタカーを使って良いと
いう項目が増え、加えて2000ドルのボーナスも支給された。
ロスに戻って間もなく知ることとなるのだが、ウァーブリンはアーニーの
個展のためにマンハッタンで最も権威あるギャラリーのひとつとして知られる
Grand Central Art Galleries(著名なJohn Singer Sargent主宰)での
開催を企画していたのであった。
つまりこの機会はアーニーが超一流アーティストの仲間入りを意味するものだった。
グランドセントラルで過去に個展を開いたアーティストはGeorge Bellows,
Robert Henri, John Sloan, Henry O. Tanner等そうそうたる面々なのだ。
個展に出展する最後の作品がそろそろ完成しそうな折にアーニーは母親からの
電話で父が脳卒中で倒れたこと知らされる。 すぐに仕度をしU-Haul
(レンタルの運搬車両)に作品を積み込み故郷ノース・カロライナへ向かった。
その数日後アーニーの父、アーネスト・バーンズ・シニアは1966年10月25日
に永眠する。
葬式の後、アーニーは個展のためニューヨークへ向かった。 到着すると
グランド・セントラルの著名なディレクターであるエドウィン・S・バリーから
挨拶を受ける。 バリーはいかにソニー・ウァーブリンをパトロンとして持つこと
が幸運なことかを切々と語った。
そしてこうも語った。 「なるべくしてなったのだ。 人はある程度の財をなしたら、
今度は自分の国の文化に貢献するのが常とされる。 君は彼にとって最高のチョイス
になり得るだろう」
アーニー・バーンズの芸術家として初の個展は大成功を収める。
同時にそれは、グランド・セントラルやロスのMcKenzie and Heritage
Galleriesとその後育まれる長い付き合いの始まりでもあった。
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